練習ではなかなか見ることのできない、ときわの仲間の趣味やマイブームなど、別の側面をご紹介します。新団員の紹介も掲載します。
テノール 渡辺九
ご存じの方も多いと思うが、私は海や漁業のことを学びたいと思い、大学では水産学を専攻していた。当然、海のことを勉強すると、海を通しての地球環境のことまで話が広がってくる。当時の私はレイチェル・カーソンの著作に触れたり、海洋や森林などの破壊活動に関する事例について学んだりしていたせいか、地球環境を破壊する活動に対して非常に危機感を抱いていた。
その地球環境を取り巻く事例も社会人になってくると、経済活動との両立を考える知見や環境の汚染を防ぐ技術に触れるにつれ、考え方も変わっていった。とりわけ大きな価値観の変化があったのは、「地球温暖化」に対するものの見方である。特に、地球の平均気温は確かに上昇しているが、それが二酸化炭素濃度の増加が原因であると立証したものがないという見解に出会ったとき、この問題の本質はいったい何なのか、全く分からなくなってしまった。
2021年に真鍋叔郎さんがノーベル物理学賞を受賞したとのことで、その簡単な解説書を読んでみた。地球の平均気温の上昇を説明するにあたり、産業革命から20世紀後半までの二酸化炭素濃度を当てはめたモデルを考案したところ、この二つの要素が高い相関関係にあったとのことである。このモデルが今のIPCCにおける地球の平均気温の予測の基本となっているらしい。
モデルの仮説の着眼点としては素晴らしいものと感じるが、実際に海洋観測の調査に出たことのある身としては、このモデルが実測したものと統計的にどの程度乖離があるのか、今後の研究結果を知りたいものである。まだまだ地球温暖化を含めた地球環境に関する私の知的好奇心に歯止めがかかることはなさそうだ。
最近日々思うこと
アルト 高橋ひろみ
1年半前、突然連れ合いを亡くして1人暮らしになりました。
1人暮らし経験が無いので一人で決めるのが難しく、自分に相談を持ち掛ける毎日です。
今毎日進めているのが「片付け」です。
我が家はいわゆる2世帯住宅で、舅姑の暮らしていた部分がまだ残っています。少し気持ちが落ち着いた今年になってから、開始しました。古い家具類、未整理の本や雑誌、書類など、一度整理したはずのものが再度出てくる不思議さです。子供たちにも手が空いた時に来てもらい、実家にいて実母の後片付けの経験者の妹にも手伝ってもらって進めています。
それだけでなく、今まで何回か引越しをして整理したつもりの自分たちの片付けも簡単ではありません。いわゆる「断捨離」というほどきちんとできるわけではありませんが、ちょうど良いチャンスととらえて探し物不要の生活を目指すこの頃です。
墓参 新潟・五泉市を訪ねて
テノール 深 町 芳 弘
渋谷区勤務以来36年間、親しくお付き合い頂いた佐藤洋子さんが急逝され1年経った。
その墓参が、木野村先生のお世話でようやく実現した。洋子さんの妹さんご夫妻が洋子さんの愛した五泉市の生家もぜひと、案内くださった。
現在、洋子さんのお兄様がお住いの生家は、広大な敷地内にJR磐越西線が通り、大きな池、名言のオブジェ、また洋子さん作成のバーべキュー場があった。洋子さんの人柄が偲ばれる素晴らしい環境に触れ、沢山の思い出が困るほど甦ってきた。
同時に思い出したのは、現在地に転居以来、毎年楽しんでいた桜の大木が、幹内部の空洞率が50%を超え倒木の危険がある、とのことで昨年伐採されたことである。この木は春は周囲で一番早くの桜、夏は緑の大木陰、秋の紅葉等、毎年毎年周囲を楽しませてくれ、見事な一生のように思った。
常に周りを思いやっていた洋子さんの言動から、この木に似た見事な一生と、ようやく思えるようになってきたこの頃である。
歯科・眼科・整形外科
ソプラノ 藤岡 順子
この数年お世話になっている病院の科を並べてみました。
歯科:昭和の時代、子供の頃はあまりうるさく言われなかったからか、口の中はきれいとは言えない状態でした。歯磨き教育も今ほど熱心ではなかったと思います。虫歯治療、差し歯、ブリッジなど一通り経験した後は、部分入れ歯が大切な友。
眼科:遺伝のせいで近視、それも強度の近視でした。眼鏡とコンタクトレンズには長年お世話になってきました。60歳代で白内障手術をすることになり、裸眼でいられたのも束の間、乱視が出た為眼鏡が必要になりました。
整形外科:年齢と共に腰や膝など痛くなってもその都度治っていたので、あまり深く考えていませんでした。ある朝、寝返りが打てなくなったので受診すると圧迫骨折でした。今でも治療は続いていて、担当医から言われた3か条。それは、栄養をしっかり摂る、重い物を持たない、転ばないことでした。
これから先何が起きるか分かりませんが、この歯で噛んで、話して、声帯がまだ無事なので歌えます。この眼で楽譜も見えて、この足腰背骨で身体を支えます。頑張るしかないですね。
『くにたち混声合唱団ときわに入団するにあたっての芸歴と
コーラスがとても好きになったきっかけ』
ソプラノ 小澤五月
私、小澤五月は、小学5年生の時に、真如苑児童合唱団のオーディションに見事1位で合格致しまして、その翌年の小学校6年生の際に真如苑児童合唱団副団長に任命されました。今になってみれば、とても楽しい思い出です。又、中高生になり中学1年生の時に、くるみ合唱団のオーディションに見事1位で合格し、中学3年生の際、わずか15才にして、子供のオペレッタのクララの主役の大役を4年間に渡り演じる事が出来ました。又、大人になり、真如苑制作本部混声合唱団のオーディションに、見事1位で合格致しました。5年目にして、楽譜のお役を致しました。音大の声楽の先生や、プロの歌手の方々と共に歌う事が出来て、今になって見れば幼い頃からの今亡き父、母に対して感謝の気持ちで一杯です。
私、小澤五月は声楽が大好きで、今年になり31年間も声楽を続けております。そして今回、くにたち混声合唱団ときわ様に出会えて大変に嬉しく思っております。
私、小澤五月sop1、2を今後ともどうぞ宜しくお願い致します。
『 よろしくお願いします 』
アルト 萩原加津美
こんにちは
このたび入団致しましたアルトの萩原加津美です。
国立市東在住、夫、26歳の娘の3人家族です。
娘が国立音高合唱部でずっと聴く側で、親の介護や自身のメンタル不調など、15年程合唱とは遠ざかっておりました。
見学に伺い、木野村先生のエネルギッシュなご指導、皆さまの熱気にスイッチが入ってしまいました
合唱祭にも飛び入りで参加させて頂き、合唱の素晴らしさを改めて感じました
今は夫の仕事を手伝い、チョソンジン氏のピアノを聴きながら、野菜をいかに冷凍保存できるか調べているオタク主婦ですが、どうぞよろしくお願い致します。
愛唱歌は 大地讃頌、時の旅人です
『ご挨拶』
テノール 児玉浩和
まず、初めに、こんな私を温かく迎え入れて下さった団員の皆様や、熱くご指導下さる木野村先生には心から御礼申し上げます。
お陰様で、合唱は全く初体験ながら、毎回、楽しく参加させていただいております。
私を誘って下さった山渋さんとのご縁も、歌を通じてですが、こうして、皆様と歌わせていただけるご縁をいただいたことに深く感謝致しております。くにたち音楽祭、東京都合唱祭では、舞台に立つ緊張感を味わいましたが、これからどんな舞台が待っているかとても楽しみです。と言う訳で、ふつつか者ですが宜しくお願い申し上げます。
『我が家のバナナ事件 』
アルト 中山雅代
これは1ドルが¥360だった頃の話。
時の総理は岸信介氏でした。私は6歳、弟は2歳。二人揃っておたふく風邪で都内のT病院に入院しました。隔離病棟だったようで、家族の面会は無く、看護婦さんが時々様子を見に来ました。弟は「ママー!ママー!」と言って一晩中泣いていました。処方された薬を飲み、痛い思いもせず、数日後2人共退院しました。帰宅してから母が「バナナ食べた?」と言いました。「食べてない」と言うと、大きな房を看護婦さんに渡して、「子ども達に届けて」と頼んだと言うのです。ところが、私達の口には入らず、消えていました。あの台湾バナナは何処へ行ったのでしょう。父母が考えた末、看護婦さん達が食べてしまったという結論に達しました。当時バナナは輸入が解禁になり、メロンに代わり病人への見舞い品になっていました。まだ若かった父母は少ない月給の中から高価なバナナを買ったのでしょう。そして私たちの喜ぶ顔を想像しながら病院へ届けたのでしょう。今でこそバナナは安価でいつでも購入できますが、あの時は大変高級な果物で、病気になった時くらいしか買ってはもらえませんでした。その後母は、私達にバナナを買ってくれました。
半世紀以上前の話ですが、今でも問題のT病院は都内にあり、最寄りの駅に電車が近づくと、あの事件を思い出します。
『音楽と共に、忙しい日々を乗り越えて』
テノール 曽卓
最近は日本語教師としての仕事が忙しく、なかなか合唱団の練習に参加できませんが、月に一度の頻度で合唱団の皆さんと歌う時間は私にとって特別なひとときです。
合唱団の練習に参加すると、日常の喧騒から解放されるような気持ちになります。音楽との共鳴によって、心がリフレッシュされるのを感じます。忙しい日々の中での合唱団活動は、私にとっての心の支えとなっています。
仕事の忙しさで練習に参加できない時もありますが、合唱団の皆さんとの絆は変わりません。一緒に歌うことで、心が温かくなり、新たなエネルギーを得られます。
これからも仕事と趣味の両立を大切にしつつ、合唱団の活動を楽しんでいきたいです。合唱団の歌声と共に、忙しい日々を乗り越え、心豊かな時間を大切にしています。
『私と合唱』
ソプラノ 神保治子
音楽好きな両親の下に生まれ、幼少期にはピアノを習わされていました。大学は国立音大と両親は希望していましたので、その為小学校六年生時に音中受験の為にこちらに越して来ました。
一人っ子というせいもあり、レッスンにも家での練習にも母がつきっきりで、毎日どうひいたらピアノを辞める事が出来るか?そんな事ばかり考えている子供時代でした。
中学進学時に、ある事がきっかけでピアノを辞め、親の夢だった音大進学も破れ、その後はテニス三昧でしたが、就職し、都内に通勤するようになってからはオーケストラの演奏会に出かける機会が増え、その都度私もオーケストラの一員とて舞台に上がりたい。と思うようになっていました。
その後は、結婚、出産、育児と演奏会どころではありませんでしたが、地域柄ママ友に音大出身者が多く、世間話の中でかつて自分もオーケストラの一員として音楽を奏でてみたい。そんな話をした時に、楽器は無理でも合唱団の一員であればそれば可能だと聞き、それまで合唱団もプロでなければ駄目なものと思っていましたが、殆どの合唱団はアマチュアであり、趣味として参加されている方もいらっしゃる。そう聞いたものですから、ママ友の知り合いの合唱団に早速入団しました。
何年前の事か、正確には覚えてはいませんが、10年位前でしょうか。
入団初日に渡されたのが、ヴェルディのレクイエムの楽譜です。
その当時の団員数は350人位いました。
楽譜を開いても、どの部分を歌っていいのかわからない状態です。
人数が多いので、1人位間違えていようが、歌わないでいようが、わかりません。
何年かいましたが、自分に何も進歩がない事を悟りそこの合唱団を退団しました。
大人数の合唱団でも良い点はあります。
しかし、私のような声楽のイロハもわからないような人間には不向きだと思われます。
勿論、努力されて古くからいらっしゃる団員と肩を並べて歌えるようになっている方々もいらっしゃいます。
しかし、私はもっと少人数で自分の欠点、練習しなくてはならない点がわかる、そして自分も合唱の輪に溶けこめる合唱団を探し探して、漸く『ときわ』に辿り着いた次第です。
まだまだ初心者ですので、宜しくお願い致します。
『しばらくのときわ合唱団への想い』
バス 李 一帆
しばらくときわ合唱団に参加していない。本当に長い休憩があった。皆さんが恋しいけれど、忙しい日々が練習に行く時間をなかなか取れなくさせている。最近は研究に集中していて、次から次へと発表している。
以前はときわ合唱団で楽しく過ごしていたが、最近は研究と仕事に追われる日々で、心身ともに疲れがたまっている。しかし、友人や家族の励ましもあり、乗り越えていけるような気がする。みんなとの交流は私にとって大切なエネルギー源であり、その絆が私を支えてくれると信じている。
忙しさが落ち着いた際に、再び暖かいコミュニティであるときわ合唱団へ戻り、皆さんと一緒に合唱練習に参加することを心待ちにしている。そして、それぞれの成長を祝い合いながら、新たなステージに向かって共に歩んでいけることでしょう。その瞬間を夢見て、今日も一日頑張ろうと思う。
研究だけでなく、日々の生活や趣味にも時間を見つけて、バランスの良い人生を送りたいと考えている。心身の健康を維持することが大切だと痛感しており、休息と適度な運動が必要だと感じている。今後は、自分にとって大切なことを見つめ直し、無理のないペースで頑張っていきたいと思う。
ときわ合唱団での皆さんと過ごす時間は、私にとってかけがえのない宝物である。だからこそ、再び皆さんと会える日を心待ちにしている。その日が来るまで、私たちはお互い励まし合い、前向きなエネルギーを持ち続けよう。そして、いつか再び笑顔で集まれるその日を夢見て、私たちは一歩ずつ前進し続けることでしょう。
『元気、元気、元気ですー』
ソプラノ 佐久間順子
「元気・元気・元気です!」昔こういう歌がありました。
わが家の前にある「世田谷区羽根木区民集会所」の廃止・売却問題を抱え、忙しい毎日を送っています。昨日、区議会を傍聴中、ある党の議員がこの件で質問をしてくれ、区長が答弁しました。「羽根木区民集会所は、当時、住民が奮闘して手に入れたところ。需要の有無で判断していいのか。区の判断を再検討する」と。傍聴に行った仲間は、驚きと嬉しさで心ドキドキ。集まった署名は920人分。手渡ししてきたばかり。大きな山を越したのかな?まだまだ、油断はできないし、利用率が上がらないと。そこで若い子育て世代対象の「羽根木子育ての会」、高齢者に視点を当てた「羽根木で楽しく暮らそう会」を区に団体登録し、早速、活動を始めます。まだまだ、やったるでー。